| 제 목 : 今週の御言葉(毎日世界へ伝えられる福音のメッセージ)第106回 | 조회수 : 26 |
| 작성자 : Barnabas | 작성일 : 2026-03-07 |
/使徒の働き 14:1–7
イコニオムにおいて、二人の使徒は一緒にユダヤ人の会堂に入り、そのように語ったので、ユダヤ人もギリシア人も大勢の者が信じた。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは異邦人たちの心をあおり、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それで二人はそこに長くとどまり、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、ご自分の恵みのことばを証ししてくださった。しかし、その町の群衆は二つに分かれ、ある者たちはユダヤ人の側につき、ある者たちは二人の使徒の側についた。そして、異邦人とユダヤ人、その支配者たちが二人を辱め、石打ちにしようと激しく襲いかかろうとしたとき、二人はそれを知って、ルカオニアの町々、すなわちルステラとデルベ、およびその周辺の地方へ逃れた。そして、そこで福音を宣べ伝えた。
二人の使徒はユダヤ人の会堂に入り、福音を宣べ伝えた。福音を聞いた人々は二つの種類に分かれた。福音を受け入れる者たちと、福音を受け入れない者たちがいた。福音を受け入れない者たちは不信者たちと手を組み、二人の使徒を激しく迫害したのである。
二人の使徒はほかの場所へ行って福音を宣べ伝えた。彼らはイエスのことばに従って、迫害する場所を離れ、別の所へ行って、引き続き福音を宣べ伝えたのである。
そのときの状況は、今日の教会の状況をそのまま示している。
福音とは、イエスを唯一の救い主として信じ、ただイエスのことばに従うことである。イエスのことばに従えなかったときには、悔い改めて赦しを受けることである。
しかし、人間の教理は、ほかの宗教にも救いがあると主張し、イエスのことばに従わなくても、悔い改めなくても、ただ教会に通いさえすれば、みな天国へ行くと主張する。
彼らは、人間が生まれる前にすでに神が救われる者と救われない者とを分けておられ、選ばれた者は天国の民として確定されているので、無条件で天国へ行くのだと主張する。
だから彼らは、私たちが苦労して伝道し、悔い改め、従う必要はないと主張するのである。
人間の教理を信じる牧師と教会員たちは、悔い改め、聖霊を受け、従わなければ天国へ行けないというイエスの福音を非常に聞きたがらない。だからこの福音を宣べ伝える者たちを、彼らはひどく憎み、迫害するのである。
人間の教理を信じる者たちは、異邦人たちと手を組んで、救いの福音が宣べ伝えられるのを妨げようとする。これはサタンのしわざである。
イエスを十字架につけろと叫んだそのときの大祭司、パリサイ人、律法学者たちは、みなサタンのしもべであった。イエスを最も尊ぶべき指導者たちが、聖書を悟らずにイエスを殺したのである。しかし神は、イエスの死を通して人類の罪を贖われた。
その後も、安息日ごとに会堂に集まり、聖書を読み、神を礼拝していた者たちが、かえってイエスといのちの福音を宣べ伝える使徒パウロに反対した。
彼らの信仰は偽物であった。
今日でも、形式主義の信仰を持ち、人間の教理を信じる偽りの教会員が教会の中に非常に多い。このようなキリスト者たちは、肉の欲望を満たすために神のみこころに逆らって行う。
彼らは多元主義を主張し、差別禁止法に賛成し、悪しき政治家たちと手を組んでこの世の利益を追い求め、そのような罪を悔い改めようともしない。
このような偽りのキリスト者は、どの時代にも存在する。彼らは日本統治時代には神社参拝に賛成し、朝鮮戦争のときには北朝鮮軍の手先となり、この世のものを得るために教会の中でサタンの働きを続けている。彼らはイスカリオテのユダのような者たちである。
===============================
使徒の働き 14:8–10
ルステラに、足が不自由な一人の人が座っていた。生まれつき足がなえ、歩いたことのない者であった。この人がパウロの語ることを聞いていた。パウロは彼をじっと見つめ、いやされるだけの信仰があるのを見て、大声で、「自分の足でまっすぐ立ちなさい」と言った。すると、その人は飛び上がって歩いた。
パウロが伝道するとき、多くの病人たちがいやされた。しかし、すべての患者がいやされたのではない。
パウロが見るとき、いやされるだけの信仰を持っている者がいやされたのである。
すべての病気をいやす力は人間にあるのではなく、人間を造られた神にあるのである。
神が許されるとき、サタンが人間に病気を与えるのであり、また神が望まれるとき、人間の病気がいやされるのである。
主が命じられるとき、すべての病気と悪霊たちは人間を離れなければならない。
病気や事故が起こるのは、神がそれを許されたからである。
人間が神を信じず、不従順であり、罪を悔い改めないとき、主は彼らを懲らしめられる。
神の懲らしめの手段が、病気と事故と問題である。
神を信じず、罪を犯し、悔い改めない者たちはみな地獄へ行く。
しかし、イエスを信じて悔い改めるとき、すべての人が赦され、天国へ行くのである。
しかし、無数の人間たちはこの真理を悟らない。
それで主は、病気や貧しさやさまざまな苦難を与えて、人間たちを悔い改めさせるのである。
神よりもこの世のものをもっと愛することは、偶像礼拝である。
このような罪を捨ててこそ、天国の民となる。
しかし、多くの者たちは神を信じない。また、イエスを信じる者たちもイエスのことばに従わない。
それで神の懲らしめが人間たちに下るのである。
パウロが福音を宣べ伝えたとき、一人の足なえがその福音を受け入れた。
これは、彼がイエスを救い主として信じ、罪を悔い改めたということである。
このとき、イエスがパウロに、彼のために祈れと命じられたのである。
パウロが主の命令に従ったとき、その足なえは立ち上がった。
これはイエスの力であり、決してパウロ自身の力ではない。
これは、今日すべての力の源が神であることを私たちに悟らせるものである。
聖霊の賜物を行う者たちは、決して自分自身を誇ってはならない。
イエスのみこころに従って主の賜物を行い、ただ主だけをあがめなければならない。
主のしもべたちを通して、主は教会員たちの病気をいやしたり、悪霊たちを追い出されたりする。このとき、すべての栄光をただ主にのみ帰し、人間がそれを横取りしてはならないのである。
しかし今日、主が与えられた賜物を用いて、多くの神のしもべたちが金や名誉を得る手段としている。
このような者たちは、みなサタンのしもべへと堕落したのである。
聖霊はこのような者たちから離れられる。すると、サタンの賜物が彼らに臨むのである。
だから彼らは依然として預言し、力あるわざを行うが、それは聖霊ではなく、サタンから来るのである。
しかし一般の教会員たちは、それが聖霊の賜物なのか、サタンの賜物なのかをよく見分けることができない。
聖霊の賜物は神と隣人を愛することであり、高慢ではなく、貪欲ではない。
しかし、サタンの賜物はこの世の名誉と欲を求め、いつも高慢であり、他人を赦さず、和解を成し遂げることができない。
人生の実によって、その人が神に属しているのか、サタンに属しているのかを見分けることができる。
イエスを信じ、罪を真実に悔い改め、主のことばに従おうと努めるとき、イエスはどんな賜物を持つ人を通さなくても、その人を直接いやされる。
ある賜物を持つ人がすべての病気をいやすと宣伝するのは偽りであり、主の前であまりにも無礼で高慢なことである。
神がいやされなければ、だれもいやされることはできない。
主のしもべたちは、すべての教会員たちが主のことばに従い、悔い改めることによっていやされるように導かなければならない。なぜなら、天国に行くことが病気をいやされることよりも、はるかに優先される課題だからである。
====================
使徒の働き 14:11–15
群衆は、パウロのしたことを見て、ルカオニア語で声を上げて言った。「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来たのだ。」そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。彼が主に語る者だったからである。すると町の外にあるゼウスの神殿の祭司が、雄牛と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえをささげようとした。しかし、使徒たち、バルナバとパウロはこれを聞いて、衣を裂き、群衆の中に飛び込んで叫んで言った。「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ性質を持った人間です。あなたがたに福音を宣べ伝えるのは、このむなしいことを捨てて、天と地と海とその中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るためです。」
パウロを通して神の力が足なえを立ち上がらせたとき、それを見た人々はパウロを神とみなし、パウロにいけにえをささげようとした。
パウロはあまりにも驚いて群衆の中へ飛び込み、自分の衣を裂いて、彼らのむなしい行いをようやく止めた。
もしパウロが積極的に彼らの愚かな行いを止めず、黙っていたなら、彼は偶像となり、滅びることになったのである。
今日、多くの牧師たちが聖霊の賜物を通して病気をいやしたり、悪霊を追い出したりしながら、まるで自分自身が行ったかのように神の栄光を横取りしている。
このような主のしもべたちは、ついには滅びる。
神が主のしもべたちを通して奇跡を行われるのは、聖徒たちがこの世のものに頼らず、ただ主の力だけに頼れという意味である。これは、ただイエスのことばだけを信じて従い、悔い改めて救われよという意味である。
しかし、神の道具にすぎない人間たちが、神の栄光を横取りして滅びる場合があまりにも多い。彼らはさまざまな面でこのようなことをする。
使徒の働き 14:16–17
神は過ぎ去った時代には、あらゆる民族がそれぞれ自分の道を歩むままにしておかれた。しかし、ご自分について証しを残されなかったのではない。すなわち、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとであなたがたの心を満たしてくださったのである。
神を知らなかったときには、だれもが肉の欲に従ってこのようなことをするのである。神は長い間、彼らを黙認され、彼らをさばかれない。
しかし、神を知る者たちがこのようなサタン的なことを行うとき、神はすみやかに彼らをさばかれる。
天から雨を降らせ、四季を与え、秋の実りの時を迎えさせて人間たちに喜びを味わわせるのは、すべての人間が神を悟って救われるようにという意味である。
神が主のしもべたちを通してさまざまな奇跡としるしを示されるのも、すべて同じ文脈である。
神の働きを行いながら最も注意しなければならないことは、人間自身を誇らず、ただイエスにのみすべての栄光を帰することである。
サタンが人間を高めようとするとき、すべての主のしもべたちは使徒パウロのように積極的にそれを防がなければならない。そうするとき、最後まで生き残るのである。
=========================
使徒の働き 14:19–23
ところが、アンテオケとイコニオムから来たユダヤ人たちは群衆を説き伏せ、パウロを石で打って、死んだものと思い、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが彼を取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ出発した。彼らはその町で福音を宣べ伝え、多くの弟子をつくってから、ルステラとイコニオムとアンテオケに戻り、弟子たちの心を強め、この信仰にとどまるように勧め、また、「私たちは多くの苦難を経て神の国に入らなければならない」と語った。そして、教会ごとに長老たちを選び、断食して祈り、彼らを信じていた主にゆだねた。
天国の福音を宣べ伝える使徒パウロを、サタンは極度に妨害した。サタンは人間の教理を信じるユダヤ人たちを使って、パウロを石で打ち殺し、町の外に捨てた。しかし神は彼を再び生かして、福音宣教を続けさせられた。
使徒パウロがしばらく死んでいた間、神は彼の霊を導いて第三の天に連れて行かれた。彼は人間のことばでは言い表せないほど美しい光景を見た。その第三の天が天国であった。
使徒パウロは非常に大胆な主のしもべである。彼は天国の実際の姿を目撃した後、さらに後退しない信仰をもって全世界に福音を宣べ伝えたのである。
彼は福音を宣べ伝えながら、イエスに固くついているようにと求めた。
天国に入りたいと願う者は、多くの患難を経なければならないと彼は言ったのである。
これが聖書であり、イエスのことばである。
イエスを救い主として受け入れるとき、彼らの心が一瞬で変わるのではない。
この世の醜い習慣がまだ残っているのである。
長い期間の霊的訓練を通して、この世の古い習慣が少しずつ消えていくのである。
それで神は、キリスト者たちに患難を受けさせられるのである。
苦しみが来るときに恨み、不平を言うキリスト者は、霊的訓練を受けることを拒否しているのである。
いつもこのようにするキリスト者たちは、完全な悔い改めを成し遂げることができないので、結局天国の民になることができない。
自分の誤りを悟って改める者が、天国の民となるのである。
「すべてのことについて感謝しなさい。すべてのことがともに働いて益となる」とは、どういう意味であろうか。
これは、苦しみと患難を通して私たちの信仰が成長し、その結果として私たちが天国に入るという意味である。
この地上で信仰生活をする最大の目的は、イエス・キリストの品性に似るためであって、この世で出世し、豊かに暮らすためでは決してない。
たとえこの世のすべてのものを得たとしても、神の民がイエスの品性に似る訓練を受けないなら、その人は決して天国の民になることができない。
偶像を捨て、隣人を赦し、罪を悔い改め、イエスのことばに従うことが、イエスの心に似る練習であり、天国に入る訓練なのである。
イエスの心にすみやかに似ていくキリスト者は、比較的少ない患難を受ける。
そして、使徒パウロのように大きな使命を受けた者は、すべての人に大きな影響を与えるので、比較的さらに大きな患難を受けるのである。
この世の習慣をそのまま持ったままで天国に入ることは不可能である。
主が許された苦しみと患難を経るとき、罪の生活から私たちを救い出してくださる主に、私たちはさらに忠実で感謝しなければならないのである。
主のことばを基準として、悔い改めと従順の生活を守ることが、自分のいのちを守ることであり、主に忠実であることなのである。
==============================
使徒の働き 15:8–11
また、心をご存じの神は、私たちに与えてくださったのと同じように、彼らにも聖霊を与えて証しされ、信仰によって彼らの心をきよめて、彼らと私たちとの間に何の差別も設けられなかった。それなのに、なぜ今、あなたがたは神を試みて、私たちの先祖も私たちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に負わせようとするのか。私たちは、彼らと同じように、主イエスの恵みによって救われると信じているのだ。
新約時代は、イエスを信じて悔い改めるとき、だれもが聖霊を受け、救われるのである。これはイスラエルの民にも異邦人にも同じように適用される福音である。
旧約の時代には、ただイスラエルの民だけが神を信じていた。そのときには、モーセの律法に従って動物の血を注ぎかけ、罪の赦しを受けていたのである。
イエスが人類の罪を負って十字架で死なれてから、モーセのいけにえの律法は廃止された。
イスラエルの民も異邦人も、ただイエスの血を通してのみ罪の赦しを受ける時代が開かれたのである。
これは突然起こったことではない。創世記と旧約の時代から神が計画しておられたことを成し遂げられたのである。新約時代の初めに、イエスを信じたが、旧約の習慣を捨てられない者たちが一部いた。
彼らは、モーセの律法を守りながらイエスを信じなければ救われないと主張した。このような信仰は誤っていた。
このような者たちは、パウロが働きをしている遠い地域まで訪ねて行って、旧約の割礼を受けながらイエスを信じよと主張したのである。彼らのために教会の中に混乱が起こった。
そのときエルサレムにいた弟子たちは、聖霊の導きに従って会議を開き、その決議したことを彼らに送って、サタンが引き起こす混乱を防いだのである。
使徒の働き 15:23–25
その人たちに手紙を託してこう言った。「使徒たちと長老である兄弟たちは、アンテオケ、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たちにあいさつを送ります。私たちの中から出て行ったある人たちが、私たちが命じてもいないのに、ことばであなたがたを悩ませ、心を乱していると聞きましたので、人を選んで、私たちの愛するバルナバとパウロと一緒にあなたがたのところへ送ることを、満場一致で決定しました。彼らは私たちの主イエス・キリストの名のために、いのちを惜しまなかった人たちです。」
使徒の働き 15:28–30
聖霊と私たちは、これらのぜひ必要なことのほかは、あなたがたに何の重荷も負わせないのがよいと判断しました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことから自分を守るなら、それでよいのです。平安がありますように。」
彼らは別れを告げてアンテオケに下り、群衆を集めてその手紙を手渡した。人々はそれを読んで、その励ましを喜んだ。
イエスを信じる者たちは、イエスのことばに従わなければならない。そして、罪を犯したときには、いつも悔い改めてイエスの血によって罪を洗わなければならない。
神と隣人を愛さないことが罪である。だから欲のために愛をもって行わなかったすべてのことを、私たちは悔い改めなければならない。
そして、偶像にささげた食物を食べてはならない。絞め殺した動物の肉を食べてはならない。不品行をしてはならない。私たちがこのように生きるとき、いつも神の平安を味わいながら生きて、やがて天国へ行くのである。
人間が作ったすべての教理は、決して神のみこころとなることはできない。そのときも今も、聖書のことばをゆがめて神の民を惑わす者たちが多い。
このような者たちは、神を信じているように見えるが、実際にはサタンに属している者たちである。悔い改めと従順がなくても、ただ教会に通いさえすれば無条件で天国に入ると主張する牧師たちが多い。このような者たちが、神のみこころに逆らい、妨げる代表的な異端なのである。
======================
使徒の働き 15:36–41
数日後、パウロはバルナバに言った。「私たちが主のことばを宣べ伝えたそれぞれの町に、もう一度戻って兄弟たちを訪ね、彼らがどうしているか見て来よう。」ところがバルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも一緒に連れて行こうと思っていた。しかしパウロは、パンフィリアで自分たちを離れ、一緒に働きに行かなかった者を連れて行くのはよくないと主張した。それで激しい対立が生じ、ついに彼らは互いに別れることになった。バルナバはマルコを連れて船でキプロスへ行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発し、シリアとキリキアを巡って諸教会を力づけた。
パウロとバルナバは、全面的に福音を宣べ伝える同労者であり、神の国を宣べ伝えるために彼らのいのちをささげる者たちである。
しかし、福音を宣べ伝える方法に大きな意見の違いが現れ、互いに異なる道を選んだのである。
このようなことは、今日、忠実な主のしもべたちの中でも起こり得る。彼らはただ福音のために生きているが、しかし互いの意見が合わないため、それぞれ異なる方法で福音を宣べ伝えるのである。
このようなことは、どちらの側が罪を犯しているのでもない。神は両方を認めておられる。だれでも自分の好む方法で福音を宣べ伝えることができるのである。しかし、それは常に主のことばの内でなされなければならない。神のことばを離れることは不従順である。
一つの教会で牧師が祈り、聖霊の導きに従って宣教の道を選ぶとき、その教会のすべての聖徒たちは牧師の意見に従わなければならない。別の方法を主張する教会員は争いを起こす者である。争いはのろわれ、滅びに至るのである。
しかし、独立した教会がほかの教会と違って伝道することは正しい。
今日、人間の欲のために、同じ教会の中で多くの争いが起こっている。
すべての者が悔い改めて、主のことばに立ち返らなければならない。
高慢と人間の欲のために、主のみこころに逆らって争う教会員たちは、まもなく滅びる。
しかし、すべての者が純粋な心で神のみこころを成し遂げようとしても、意見が合わないことがある。そのときは、その問題をめぐってすべての者が主に祈らなければならない。そうすれば、聖霊が皆に同じ心を与え、最も良い道を開いてくださる。
しかし、祈らず、最後まで互いの頑なさと欲だけを主張することは、皆が滅びる道である。
| 이전글 : 今週の御言葉(毎日世界へ伝えられる福音のメッセージ)第105回 | |
| 다음글 : 地獄にいるカルヴァン 5 (Calvin in Hell 5) | |
|
|